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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
小泉政治と新聞
山口 二郎
 
 
 
  1 小泉政治は何を変えたのか

 「言葉の力を信じている」とは、「再生」朝日新聞が打ち出したジャーナリスト宣言のいわば肝の台詞である。ジャーナリズムとは言葉を伝える仕事である。しかし、その土台が今怪しくなっているのではないか。小泉政治の5年間で変わったものをあげろと言われれば、小さな政府に向けた政策転換、自民党の変容などを思いつく。ことメディアとの関係で起こった最大の変化は、政治における論理の消滅、言葉の無意味化であろう。

 過去五年間の小泉首相の「迷言」集を作ることは簡単である。国債発行額を三〇兆円以内に抑えるという公約を守れなかったという追及に対して、「この程度の約束を守れなくてもたいしたことはない」と言い放った。自衛隊をイラクに派遣するに際して、戦闘が終結した地域に派遣するという建前の現実性を質問されると、「イラクのどこが安全なのか分からない」と開き直った。これ以外にも、国会論戦においては質問への回答拒否、はぐらかしが目立った。要するに、これくらい不真面目な首相は今までに存在しなかったのであり、彼ほど論理を無視した政治家はいなかった。その意味では、小泉首相は民主主義の指導者としては失格であった。

 アカウンタビリティ(説明責任)という言葉が日常用語となって久しい。しかし、小泉政権はアカウンタビリティとは無縁であった。むしろ、この時代には言葉の混迷がいっそう深まった感がある。

 政治と言葉について考える時、イギリスの文学者、ジョージ・オーウェルの文章が貴重な手がかりを提供してくれる。小説「一九八四」は彼の代表的な政治小説である。これは架空の全体主義国における過酷な支配によって人間性が抹殺される様を描いた話である。この全体主義国を支配するのはビッグ・ブラザーで、「戦争は平和である。自由は隷属である。無知は力である」という三箇条が、支配政党のスローガンである。矛盾したものを等置する文は、論理的に破綻している。しかし、論理的に破綻した文を違和感なく受け入れさせることこそ、全体主義支配の要諦であることをオーウェルは見抜いていた。健全な人間であれは、破綻した文章には違和感を覚え、矛盾を正そうという反応を起こす。この、矛盾を正そうとする動きが権力への批判の契機となる。だからこそ、支配政党はこの三箇条を繰り返し国民に染みこませようとするのである。大半の人が矛盾に鈍感で、矛盾に違和感を持つ人が少数派になれば、権力は安泰である。

 オーウェルの描いた世界は、小泉時代の日本にとって決して他人事ではない。アメリカ軍の再編成に伴い、自衛隊が日本を防衛する部隊からアメリカ軍の一部に事実上変わり始めている。主権国家としての存在が問われている時に、政府与党は教育基本法改正案を提出して、国民に愛国心を持てと説教する。小さな政府路線のもとで地方に対する財政支援が大幅に削減され、農村部を中心に地域社会は荒廃の極にある。まさに山河が荒廃している時に、教育基本法改正案の中で郷土を愛する態度を国民に求め、自治体に対しては「地方分権」を唱える。障害者「自立」支援法の施行に伴い、障害者は施設を利用する際に費用の一割の自己負担を求められる。その結果、作業所で働いて得る賃金よりも負担金の方が高くなり、障害者は次々と働くことをやめて自宅に引きこもる。いったい政府は何をしようとしているのであろうか。矛盾に鈍感でなければ、この時代の政治を正視できないはずである。

 小泉政権の最大のスローガンである「小さな政府」もまた、「自由は隷属である」と同類の矛盾した言説である。小さな政府は決して小さな権力を意味しない。むしろ、小泉政権の五年間、警察や検察の権力の暴走が目立った。国会議員から一般市民に至るまで、政権に対立、批判する者にはしばしば微罪での逮捕、起訴が加えられた。佐藤優氏の著書の中にある「国策捜査」という言葉は流行語にまでなった。高い支持率の政権の陰で、検察や警察が好き放題をしているという側面は否定できないであろう。日本の現状をファシズム前夜とまで言うのはいささか誇張であろう。しかし、健全な民主主義が保たれていると言うのも誇張である。健全な民主主義を支えるのは、市民的自由であり、言論の自由である。報道機関はそのことについて、一般市民よりも敏感でなければならない。

  2 新聞の無力さ

 こうした問題状況に照らしてみると、小泉政治の五年間で新聞の衰弱はいっそう進んだとさえいるのではないか。最近、一人暮らしをしている学生に訊いてみても、新聞を購読している者が急速に減っている印象である。中には、マスコミへの就職を希望していても、情報はインターネットを通して得ているという図々しい(?)若者までいる。活字離れそのものについて新聞が責任を負うべきだという議論は成り立たない。しかし、新聞が読まれなくなっていることの理由を考えることは必要であろう。その問いに対する一つの答えとして、私自身が広い意味での政治報道について感じている不満を述べてみたい。

 誕生の経過からして、小泉政治はテレビと密接な関係を持っていた。小泉人気はテレビなしにはあり得なかった。首相の陰にいるスピン・ドクター(政治家の振り付けをするメディア対策担当者)は、テレビを最大限に利用して、小泉ブームを巻き起こした。ワンフレーズ・ポリティクスという手法はテレビにおいてこそ効果を発揮する。

 小泉政治のあまりのブームの前に、新聞は自らの比較優位を見失ったのではないか。その点について後知恵による批判をしても仕方ない。私を含め長年自民党政治を批判してきた学者や評論家も、小泉首相の叫んだ「自民党をぶっ壊す」という啖呵には期待感を抱いたことは正直に告白しておかなければならない。それにしても、政策転換の絶好の好期であったからこそ、改革のスローガンの下で何をどう変えるのかという具体的な議論をすべきであった。その点で、映像メディアと活字メディアとは明確な役割分担をすべきであった。

 テレビは刹那的なメディアである。時間を越えて情報を蓄積したり、時間をかけて物を考える素材を提供したりすることは、テレビの本来、不得意な部分である。どれだけビデオが普及しても、そのことは乗り越えられない制約である。新聞のテレビ欄は目次や索引としてはあまりにも大雑把であり、ほしい情報を的確に保存することは不可能である。テレビの強みは主観的な反応を引き出す点にある。怒り、喜びなどの感情は、活字よりも映像と音声によって触発される。小泉政治はこのようなテレビの特性をフルに利用したという点で、日本の政治史上新しい実験をしたということもできる。小泉首相の言葉はメディアで「分りやすい」と評されてきたが、あれを分りやすいと評することはメディア自体の思考停止の反映である。物事を過度に単純化することと分りやすいことは違う。単純なスローガンで物事を裁断すれば、分ったような気になったというのが小泉政治の本質であった。しかし、テレビというメディアは分ったような気にならせることが得意である。きわめて限定された時間の中では、分ったような気になることと分ることの違いを考えることなど不可能である。

 新聞こそ、小泉首相の言う改革の中身について掘り下げ、多面的に考えるという議論をもっと徹底して展開すべきであった。しかし、新聞もその時々の世論の体制に従うような議論を展開して、小泉政治の後押しをしてきたように思える。小泉政治の本質である小さな政府という政策主張に照らしてそのことを思い出してみよう。

 官僚、業界団体、族議員のいわゆる鉄の三角形が税金を食い物にして私益を計るという、「官のモラルハザード」は、日本政治の大問題であった。小泉首相がそれに切り込もうとしたことは的確な問題提起であった。それを支持することはメディアの主張としても理解できる。しかし、活字メディアは改革の後押しをする雰囲気作りではなく、小泉首相の唱える改革策が本当に有効なのかどうかを検証するという使命を負ったはずである。その中では、官のモラルハザードの抑止が不十分だとか、逆に本来政府が採算を度外視してもなすべき公共的使命をも放棄しようとしているとか、多面的な議論が必要であった。

 逆に、二〇〇五年の総選挙の後、秋から翌年冬にかけて、ビルディングの耐震偽装事件、新興企業における粉飾やインサイダー取引、保険会社における保険金不払いなど、「民のモラルハザード」が相次いだ。民のモラルハザードについては、二〇〇五年四月のJR西日本の大事故の際にきちんと検証しておくべきであった。しかし、郵政選挙までは「官=悪、民=善」という単純な二分法をメディアも振りまいていた。新聞が格差問題や社会保障改革の弊害に目を向けるのは、私の価値観から見れば大いに結構なことではあるが、それにしてもいまさら何をという思いを禁じえない。そんなことは選挙の際に議論すべきであった。国民の多数が、小さな政府の弊害を予想した上で、それでも小泉路線を選ぶというのであれば、その選択を尊重するしかない。しかし、新聞報道は国民の覚悟をはっきりさせる役割を果たしたのだろうか。

 総じて、小泉政治の五年間、新聞はその時々の多数派に冷水を浴びせ、目を覚まさせるという役割を十分に演じてこなかったのではないか。テレビの持つ圧倒的な影響力の前に、新聞がテレビとは異なる役割を見失ったのではないかというのが私の理解である。もちろん新聞も商品である以上、面白くなければならないし、売れなければならない。しかし、新聞の面白さはテレビの面白さとはまったく別である。新聞にはテレビと違って免許制度という縛りが無い。だから自由にものを言えるメディアである。自由な言論こそ新聞の魅力のはずだが、小泉政治の五年間には新聞の萎縮現象の方が目立った。

  3 権力と新聞はどう対峙すべきか

 その代表的な事例が、番組改変圧力をめぐる朝日新聞とNHK、自民党との対決である。この事件の検証については、魚住昭氏などによる詳細なレポートがあるので、事実経過についてはここでは省略する。読者として最も不満に思うのは、朝日新聞が徹底的に争う姿勢を放棄し、互いに言いたいことを言い合い、すれ違いのまま幕引きが図られた点である。番組制作に対する政治的介入の有無は、言論の自由にかかわる大問題である。魚住氏の調査などを読む限り、安倍晋三、中川昭一両代議士によるNHKへの圧力が存在したことは確かなように思える。そうであれば、朝日は原則論を掲げて論争を続けるべきであった。

 この事件では、途中から取材の際に無許可で録音を撮ることの是非という矮小な問題に論点がずらされた。朝日新聞では、無許可の録音テープの流出による社会部記者の処分という事件が起こった直後であるために、テープの存在の有無についてもうやむやのままに議論が立ち消えになった。魚住氏が後に『現代』に掲載したレポートによれば、やはり録音テープは存在したのであり、その内容は朝日側の主張を裏付けるものであった。国会議員やNHKの幹部は公人であり、その発言には一般私人とは異なる重みがあるはずである。権力者相手の取材の際には無許可で録音を撮ることもありうるという前提を、自ら否定してしまえば、以後新聞による権力者に対する取材は大きく制約されてしまう。

 朝日の場合、記事捏造などいくつかの大失敗があり、全体として受身に回ることもやむをえない反応かもしれない。しかし、新聞はテレビと違って政府から免許をもらって営業しているわけではない。かつてウォーターゲート事件の報道を始めるに当たって、ワシントン・ポストの幹部は権力からの全面的な攻撃を覚悟し、最後は社屋を売っても独立した報道を続けようと記者を鼓舞したというエピソードを読んだことがある。今の日本に必要なのは、そのような意味でのジャーナリスト魂である。

 もっとも、最近の新聞に希望の曙光が見えないわけではない。読売新聞が、憲法改正等の社論を変えないまでも、第二次世界大戦に突入した日本の政策決定過程を検証し、政治家の責任を明らかにしようとする大型連載を行っている。真に現実主義を標榜するならば、そうした視角からの政治分析が必要であり、大いに注目したい。

 もう一つは、地方紙の頑張りである。小さな政府路線がもたらす生活破壊、米軍基地がもたらす地域破壊などは、全国紙よりも地方紙のほうが敏感である。筆者が日常的に目にすることができる北海道新聞を例に取れば、北海道警の裏金疑惑の息長い追及が特筆に価する。もっとも、道新の側にも勇み足があって、警察からカウンターパンチを浴びていささかうろたえているように見えるのは残念であるが。最近の最大のヒットは、沖縄返還の際のいわゆる西山事件(毎日新聞記者が外務省の機密書類をスクープし、国家公務員法違反に問われた一件)に関連して、当時の外務省条約局長にインタビューした記事である。このインタビューの中で、元局長は、沖縄返還交渉の際に日米両政府の間に米国負担の肩代わりをめぐる密約があったことを認め、西山記者の記事が正しかったことを証言した。時あたかも、米軍再編成が進もうとしている今、まさに外交交渉と民主政治のあるべき関係を考える上で頂門の一針とも言うべき貴重な証言である。

 このインタビューは雑誌などでは反響をよんだが、残念なことに全国紙での後追いは存在しない。ジャーナリズムは日々の事件をすばやく報道することを第一義の使命としている。しかし、過去の事件を掘り起こし、今を考える手がかりとするという報道こそ、活字メディアの独壇場ではないか。過去を語ることは今を語ることでもある。目の前に起こったことだけに目を奪われていれば、目の前の出来事の意味も分らない。新聞を作る人々が、もう少し幅の広い時間軸で発想することが求められている。

 小泉政治の五年間には、メディアと政治の関係を考えさせられる事件が相次いだ。小泉首相という特異なキャラクターが退場すれば、政治をもっと落ち着いた雰囲気で考えることが可能になるという期待もある。この間の経験を十分総括し、ポスト小泉の政治において新聞は権力へのチェックという本来の役割を取り戻してもらいたい。

(新聞研究8月号)