予想通りと言うべきか、小泉首相は八月一五日に靖国神社に参拝した。国益を顧みない愚挙という他はないが、同時にこの件に関するコメントには、この人には何を言っても無駄だという諦めが感じられる。また、首相の靖国参拝に反対する発言を繰り返してきた加藤紘一氏の自宅が放火され、全焼するという事件まで起こった。一連の出来事は、小泉時代の五年間に日本の民主政治の土台がかなり侵食されたことを物語っている。そして、他ならぬ小泉首相自身がそのことを推し進めた張本人であるといわなければならない。
この五年間、小泉首相はメディア政治の主人公でありつづけた。日本の政治でメディアとの関係をこれほど戦略的に構築したリーダーは初めてであった。メディアは情報を伝える媒体であり、首相がメディアに出れば出るほど、政治に関する情報は増え、国民の政治に対する関心は深まるというのが素朴な理解であろう。しかし、現実は逆である。小泉がメディアで自らの主張を語れば語るほど、多くの国民は思考停止状態に陥り、政治課題に関する対話、コミュニケーションは途絶していった。靖国参拝のせいで日本と近隣諸国との間で首脳のコミュニケーションは途絶えているが、同じことは国内でより広範囲に起こっているのである。
社会学者の佐藤卓巳氏は、メディアをめぐるこのような逆説について、次のような興味深い説明をしている。メディアとは、もともと「間」という意味であり、二つのものの間を取り次ぐという意味ではコミュニケーションの道具となるが、同時に最初は一つであったものを二つに分けるという効果ももたらす。メディアは、それがもたらす情報を共有し仲間意識を持つグループと、そうしたものに無関心、あるいは反発するグループとの分裂をもたらす。メディアが発達すればするほどこの分化は進む。オタク文化など、その極限形態であろう。だから、メディアの発達がコミュニケーションを豊かにするというのは幻想にすぎない(『北海道新聞』(夕刊)八月一七日)。
最近、民主主義と言われる国でも、対話や意思疎通が成立しない深い亀裂が広がるという現象を見出すことができる。アメリカでは、大統領選挙の時の民主党支持州と共和党支持州のくっきりした色分けにそれが現れている。ブッシュ政権の対外政策はとっくに破綻しているが、そのことを指摘する議論には「非愛国的」という攻撃が様々なメディアを通して押し寄せる。同じことがブッシュの盟友小泉のもとでも進んだように思える。小泉首相は、本来複雑な政策課題を単純化し、民営化こそが改革の特効薬だとか、小泉改革に異論を唱えるものは抵抗勢力だといった一刀両断の議論を好んだ。国民もこれを喜び、小泉に喝采を送った。
しかし、メディアに断片的な言葉があふれればあふれるほど、日本の政治は論理を失い、政治的な議論の空間は収縮していった。靖国問題のように感情が絡む争点について、立派な指導者なら情緒や対決を排して、冷静な議論で国益を探るというアプローチを取るはずだが、小泉は正反対であった。他の争点でもそうであったが、およそ政策論議に関して小泉ほど不真面目な首相は存在しなかった。国政の最高指導者が、レッテル貼りや開き直りや説明拒否を繰り返して一人悦に入っている状況では、各種のメディアで独りよがりの攻撃的言説がはびこるのも当然である。かくして、ネット空間には狂信的なナショナリストによるとげとげしい言説があふれかえることとなる。政治における言論空間の破壊こそ、小泉首相が残す最大の負の遺産である。
安倍晋三氏が後継首相になる時、この点はどうなるのであろうか。私はこの点について何の希望も持っていない。彼は近著においても、自由と民主主義という価値観の重要性を力説している。しかし、自由や民主主義をお経のように唱えていれば、それが実現されるわけではない。安倍は闘う政治家になりたいそうだが、自由を脅かす者と闘う気があるのだろうか。加藤紘一邸放火事件は、まさに自由を脅かす大問題である。官房長官たるもの、このような事件が起これば真っ先に政府としてテロを断固許さないという態度を示すべきであった。しかし、安倍はこの件について何も語っていない。靖国参拝を掲げれば何をやっても許されるとでも思っているのだろうか。
安倍個人のみならず、同世代のナショナリスト、タカ派の政治家を見る時、私は詩人、石原吉郎がシベリア抑留中の経験を綴った次の文章を思い出す。
「(シベリア抑留中)作業現場への行き帰り、囚人は必ず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。(行進中つまずくか、足を滑らせて、列外へよろめいた者が何人も射殺された)。中でも、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている十七、八歳の少年兵に後ろに回られるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲する。」(『望郷と海』、ちくま文庫版、1990年、36_37ページ)
石原が描く「劣等感を持った少年兵」に安倍が重なって見えるのである。そしてまた、安倍以外に首相の座を担える政治家が見つからないことも、自民党の貧困を物語る。
現在の日本では、経済分野だけでなく、政治的言論についても二極化と亀裂が進んでいる。自由と民主主義という価値を重んじる日本にとってきわめて由々しい事態である。自民党総裁選挙に向けて、有意義な言論空間を取り戻すチャンスはまだある。靖国問題を争点にしないなどと言わないで、安倍も自らの歴史観、政治観を語ってもらいたい。このままでは問答無用の極右政治が始まりかねない。
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