自民党総裁選挙は緊迫感を欠いたまま、安倍晋三氏の圧勝という結果に終わった。選挙結果から見る限り、安倍氏の党内基盤は磐石のように見える。しかし、今までの自民党の歴史を振り返ってみると、長期安定政権の後には短命政権が繰り返し現れるというパターンが存在する。佐藤栄作政権の後には、三角大福が二年ごとに入れ替わり、中曽根政権の後には四代の短命政権が続いた。これは決して偶然ではない。長期政権が続くと、与党はどうしても権力の地位に安住し、おごりや惰性が生じる。自己修正能力の欠如は、自民党に大きな混乱をもたらした。
もっとも安倍氏の側からは、以前の自民党は腐敗によって自滅したが、ポスト小泉の自民党は利益配分政治から脱却し、スキャンダルとは無縁の体質になったという反論もありうるだろう。確かに、小泉首相の強権により、利権政治家は追放され、小さな政府を追求する自民党に汚職の種は存在しないように見える。しかし、小泉政権の五年間で本当に自民党が本当に変わったと断定するのはまだ早い。また、安倍政権が過去の短命政権とは異なると楽観することもできないように思える。
安倍氏の周りに群がった政治家たちこそ、ほかならぬ最大の敵になりうるという逆説が今の自民党からほの見えてくる。過去五年間、小泉首相は一応、古い自民党の派閥政治や利権配分を否定したからこそ、国民もこれを一貫して支持してきた。他方、自民党の大半の政治家は小泉が使い出のある看板だからこそ、政策路線は別にしてこれを支持してきた。この機会主義は、小泉時代を経ても変わっていない。だからこそ、今回安倍氏への雪崩が起こったのである。小泉首相は、党内の便乗組を黙らせるだけの権力闘争の腕と技を持っていた。周到な仕掛けと大向こう受けする技がなければ、便乗組の要求と、古い自民党への国民の拒否反応の間で、安倍氏は板ばさみになるであろう。
たとえば、来年の参議院選挙に向けて、昨年の郵政解散の際に党を追放された造反議員の復党を認めるかどうかという難問が待ち構えている。小泉首相は、離合集散は世の習いなどと他人事のような構えだが、この問題はそう簡単ではない。まさに、安倍氏が古い自民党を拒否する国民の感覚に従うのか、小泉時代に破壊された自民党の美風を復活させるのかが問われることとなる。九七年秋、当時順風満帆であった橋本龍太郎首相が佐藤孝行氏を入閣させたことで世論の支持を失い、この政権はつきを失ったまま翌年の参議院選挙で大敗したことを思い出す。
小泉路線を継承するにしても、これを転換するにしても、どちらの道にも大きな困難が伴う。安倍氏が自らの理念を示し、国民に対して明確な言葉を発しなければ、この隘路を突破することはできない。「美しい国」というスローガンで、国民を納得させることができるとは思えない。政治とは美意識や趣味の話ではない。国民が直面している具体的な課題を解決する作業である。しかも、小泉政権は社会保障削減など、さまざまな負の遺産を放置している。この収拾が安倍政権の内政上の課題となるが、総裁選挙の過程で、安倍氏は税制や社会保障についてなんら具体的な政策を示さなかった。政策面での遊びを残そうという作戦だろうが、首相になったら曖昧さは許されない。再チャレンジだの、ワークライフバランスだのと、目新しい言葉は出てくるが、中身は見えてこない。仮にこれらの課題にまじめに取り組むのならば、企業が空前の収益をあげる一方、賃金が全くのびていないという経済の現状に切り込むことが必要となる。それだけの覚悟が安倍氏の言動からは伝わってこない。首相として、周囲の振付師の作ったせりふではなく、自分自身の言葉を話すことができるかどうかが、当面の見ものである。
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