このところ、福島、和歌山、宮崎で知事が談合や収賄の容疑で逮捕され、辞職するという事件が相次いだ。また岐阜県などでは裏金の存在が住民の批判を集めた。これから地方分権を進めるために、一連の事件からどのような教訓をくみ取るべきか、考えてみたい。
つい数年前までは、各地の知事が地方分権のリーダーとして中央政府やメディアに対して、現在の中央集権体制に対する批判と改革の提言を発していた。長い間日本の地方自治体は国の行政の下請けとして、法律面でも財政面でも手足を縛られてきた。しかし、改革派知事の登場によって、自ら法を解釈し、新たな政策を作り出すという意味での政治を地方で発見することができた。まさに改革派リーダーは、単なる行政の統括ではなく、自ら政治家となることによって改革派としての位置を確立した。
しかし、政治家となることには落とし穴もともなっていた。選挙を勝ち抜くこと、そのために資金を集めることなど、政治につきまとうもろもろの課題をこなす上で、知事の権力は大きな威力を発揮した。そのことの危険性を十分認識できなかった所に、今回の事件の原因がある。
九〇年代中頃、宮城県や北海道などでカラ出張などによる裏金作りが発覚し、情報公開の徹底などの対策が取られた。私自身北海道での改革に関わり、長年の悪しき慣行はもはや今日許されないという認識が役所に浸透したと思っていた。しかし、あの時に騒ぎが起きなかった県では、危機感は存在しなかったのであろう。
二〇〇三年の統一地方選挙を境として、改革派知事は減少傾向にある。彼らは多選をよしとせず勇退し、後継者は必ずしも改革路線を引き継いでいない。中央政治では小さな政府路線が継続し、地方に対する公共事業費や交付税も減額が続いている。こうした状況では、「理念では飯は食えない」とばかりに、従来型の利益配分路線への復帰を求める声も、地方では高まっている。中央における構造改革によって、地方ではせっぱ詰まった関係者が利権へすがりつくというねじれた構図が存在するのである。
知事の不祥事が続発する状況では、地方は信頼できない、だから中央による統制を強化すべきという声も聞こえてきそうである。しかし、腐敗は地方分権や地方政治の民主化が不徹底だからこそ起こる過渡的な現象である。外国でも、腐敗をくぐって改革を実現している事例は多い。政策形成に関する情報をすべて公開した上で、自治体に自由な財源を与え、実質的な資源配分を地方で決められる体制ができれば、住民は今よりも地方政治に対して関心を持ち、監視の目を向けるであろう。実際、鳥取県など公開と参加を徹底することで成果を上げている県もある。
そもそも、権力者に取り入って金を引き出すことが政治であるという古くさい観念こそが、腐敗の根本原因なのである。こうしたたかりの感覚を打破するには、民主主義の学校としての地方自治を強化するしかない。
県政刷新の知事選挙においては、市民社会から見ると非常識にすぎない役所の常識を打破するための具体的な改革策を議論し、分権の担い手として再出発する契機とすべきである。
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