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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
民主政治再生への反撃を
山口 二郎
 
 
 
  1 安倍政治の現状評価

 安倍政権が発足して三か月の間に、教育基本法が改正され、防衛庁が防衛省になった。これらの政策転換を推し進めた人々にまともな論理があったわけでもなく、国会で十分な議論が尽くされたわけでもないにもかかわらず、「戦後レジームからの脱却」はあっという間に動き出してしまった。このままでは、二〇〇六年は戦後民主主義が終わった年として後世の人々に記憶されることになるのかもしれない。そうさせないために私たちは何をすればよいのか、考えてみたい。

 安倍政治を見て感じるのは、軽さと猛々しさの組み合わせへの当惑である。戦後民主主義への復讐心を顕わにした政治家は今までにもいたが、岸信介や中曽根康弘には粘着性を感じた。しかし、今の安倍政権を構成しているのはまさに、政界の「恐るべき子供たち」であり、内閣は学生の同好会の雰囲気である。政権発足早々、政府税調会長や行革担当大臣が醜聞で辞任した。さらに数名の閣僚について、政治資金収支報告書に関する不正や口利きをめぐる疑惑が取りざたされており、安倍政権は早くも満身創痍の状態である。

 政策面でも政権の軽さは既に随所に現れている。いわゆるホワイトカラー・エグゼンプションを盛り込んだ労働法改正は、いったん通常国会に提出することになったが、土壇場で国民や野党の反発を恐れて見送りとされた。教育改革については短時間の検討でたいした目玉が出てこないことが分ると、首相自ら指示を出して教員免許の更新制やいじめる子供に対する登校停止処分などを目玉とする教育再生会議の第一次報告がまとめられた。首相に提言すべき審議会の方向を首相自ら作るという奇妙な現象である。さらに、共謀罪について、首相は一旦、与党に通常国会での成立を指示した(後に、与党の反対でそれを撤回した)。面子を守り思いつきに飛びつくというのが安倍政権の政策形成のスタイルである。

 そして、政策の中身については、労働ビッグバンや共謀罪に象徴されるように、人権と人間の生を軽んじるものである。いじめ対策の即効策にしても、いじめた子を学校から排除するというものであり、およそ教育とは相容れない猛々しい対策である。

 政策の猛々しさは、経済界の影響力がかつてないほど高まったことの反映でもある。昨年末の税制改正では、個人に対する定率減税廃止とは対照的に、法人税の減税が決まった。非正規雇用労働者に対する差別はそのまま維持し、正社員にまで残業手当の踏み倒しを正当化しようとする。経済界にとってよいことは国家にとってよいことだと言わんばかりである。そんな憤懣を抱いていたとき、1月20日付『朝日新聞』朝刊の「経済気象台」というコラムで、次のような文章を見つけた。週50時間以上働く労働者は、日本で28パーセントと20パーセントのアメリカ、それよりもっと少ないヨーロッパ諸国を引き離し、最多である。年間休日数は、日本がアメリカと同じ127日で、140日前後のヨーロッパ諸国よりもはるかに少ない。サービス残業が横行する実態を見れば、ホワイトカラー・エグゼンプションは事実上導入されているに等しい。これだけ先進国の中で悪い労働条件にありながら、なお競争力がないとするなら、問題は経営者の能力にあると思えてくるとこのコラムは結んでいる。まさに盗人猛々しい経営者の要求に政治がおもねっている現状である。

 権力を担うことに対する緊張感や懼れを持たない若手政治家が政治をおもちゃにすると、このような結果になるのであろう。政治家の小児性は、外罰的発想に典型的に現れる。困ったことに直面すると、自分の責任を考えるのではなく、他人を責めるという態度である。たとえば、教育荒廃の原因のひとつとして、政治家はいとも簡単に問題教師、だめ教師という言葉を使う。自らがだめ政治家ではないかという反省などかけらも窺えない。

 政治家の世界における常識の崩壊を示す個人的経験を紹介しておきたい。昨年12月7日、私は道州制特区法案に関する意見陳述のため参議院内閣委員会に参考人として招致された。この委員会は午後一時開会予定であったが、定刻になっても定足数がそろわず、五分ほど待たされた。会議が始まっても、多くの委員は欠席していた。その大半は自民党と民主党であった。他人を呼びつけておいて、会議が定刻に始められないなどということは、まともな大人のすることではない。教育改革担当の首相補佐官も内閣委員であり、当日は欠席していた。正当な理由があるのかどうか、私は知らない。要するに、学級崩壊だのだめ教師だのと言えた義理ではないのである。

 小泉時代の自民党の成功が大きければ大きいほど、安倍政権の苦悩は深い。政策にせよ、党運営や政策決定手法にせよ、小泉モデルの継承と転換という矛盾した課題を安倍は突きつけられている。郵政造反組の復党に対する世論の反発が示すように、人々は依然として古い自民党のイメージを嫌っている。権力を維持するためだけにあるという自民党の体質を拒否しているのである。したがって、政策的中身のない党内融和を見せられれば反発する。他方、参議院選挙を控えて党内の軋轢を起こすこともためらわれる。そこに安倍の悩みがある。

 政策面も同様である。いざなぎ景気を越える景気拡大と言われながら、普通の人にはほとんどそのような実感はない。特に政治的に意味を持つのは地域間格差の問題であろう。参議院の選挙区の部分では、農村部過剰代表が相対的に残っており、地方の衰弱に対する反発が投票に表現される可能性がある。さらに、先に触れたように経済界に奉仕する政策が目白押しという現状では、富める者が富をためるだけで少しも再分配されないという不満が高まるに違いない。他方、地方や弱者に対する配慮を手厚くすれば、改革路線からの後退という批判が、特に経済界、経済財政諮問会議、一部のメディアから出てくる。どちらを取っても、皆からほめられるということはない。

 だからこそ、安倍は憲法改正を前面に掲げ、参議院選挙の争点にしたいなどと言い出したのである。改憲は自民党をまとめるには最もよい旗印である。憲法改正は究極の改革と強弁することもできる。さらに、教育基本法の改正や共謀罪の制定など、憲法改正の予行演習等も言うべき、自由と民主主義を脅かす動きは着々と進んでいる。実際のところ、憲法論議は、自民党の危機が深刻なことの反映である。しかし、野党の側にこうした自民党の迷走に対決する戦略があるわけでもない。自由や平等の破壊にどう対決するべきか、考えてみたい。

  2 日本における自由と平等

 現在の日本社会の息苦しさ、生きにくさは、生活における自己責任原則の浸透と社会におけるパターナリズムの並存という一見矛盾した現象に起因すると私は考えている(図参照)。従来の日本社会は、抱え込み社会とも言うべきもので、パターナリズムの仕組みと個人に対するリスクからの保護の組み合わせによって、ある種の平等や安定を保ってきた。パターナリズムとは、個人の自由や自立を否定し、上下関係と権威への服従を強調する文化である。従来の日本では、会社における終身雇用制、業界における談合、地域経済界におけるボス支配などパターナリズムの社会秩序があちこちに存在した。あるいは、行政指導という官僚の権威に従っていれば、業界における生存が保障された。こうした秩序に疑問を持たず、多数派に同調していれば、雇用の確保、公共事業の受注など経済的生活に関する安定が保証された。業界における過酷な生存競争の抑止、労働者に対する一定の賃金の確保などの形で、企業や人はリスクから保護された。もちろん、この秩序は自由や主体性を求める人や企業にとっては息苦しいものであり、出る杭を打つ制裁や抑圧が加えられた。

 しかし、バブル崩壊後の日本的経営への見直しや、グローバル化にともなう競争圧力の浸透の中で、パターナリズムの中でも温情主義の側面に批判が集まった。そして、この十年ほどの間、雇用の流動化、地方交付税や公共事業費の削減によって、労働者や地域社会は大きなリスクにさらされるようになった。増加するリスクに、人々は自己責任で対応することを求められている。五年間の小泉時代を経て、行政は圧倒的に国民生活に対して冷淡になっている。障害者自立支援法、生活保護基準の切り下げなど、その例は枚挙にいとまない。

 しかし、個人を縛ってきたパターナリズムの秩序は持続している。分野によってはますます強化されてさえいる。その典型は、教育基本法改正である。国を愛するということは人によってその内容が様々であり、およそ公定的な解釈は不可能である。それを無理やり法律に書き込み、子供に国を愛する態度をもたせることが教育の目標とされてしまった。先に紹介した教育再生会議では体罰の容認も検討されていると首相補佐官は公言した。だとすれば、国を愛する態度が足りないので体罰を受けるという事態も、冗談ではなくなる。これ以外にも、立川テント村事件など戦争に反対する市民の活動に警察、検察が恣意的で強権的な弾圧を加える事件が続発している。これらの事件では、特定の思想を表現し、他人に伝達したこと自体が罪に問われている。自由な個人が政治的意見を活発に表明する社会に対する嫌悪が警察、検察の行動からは伝わってくる。

 いまや強者は、自己責任とパターナリズムの結合という矛盾を平然と人々に押し付けようとしている。たとえば、ホワイトカラー・エグゼンプションに関して、ザ・アールという人材派遣会社の社長である奥谷禮子氏は、次のように述べている。
「(ホワイトカラー・エグゼンプションが)過労死を招くという反発がありますが、大体経営者は、過労死するまで働けなんと言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。(中略)自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことは言えない、とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。揚げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。(中略)「残業が多すぎる、不当だ」と思えば、労働者が訴えれば民法ですむことはないですか。」(『週刊東洋経済』2007年1月13日号)

 あまりの身勝手な言い分に、唖然とするばかりである。奥谷氏の会社は例外かもしれないが、今の日本のどこに社員が自分の健康のためにいつでも時間外労働を拒否したり、休暇を取ったりできる会社があるのだろう。会社の中のパターナリズムを利用しつつ、使用者は労働者にサービス残業を強いているのが現実ではないか。

 また、経済界全体としては、奥谷流の個人主義に逆行する路線を打ち出している。正月の新聞では、日本経団連が御手洗ビジョンを提起したことが紹介されていた。その中では、新しい教育基本法の理念に基づき、日本の伝統や文化、歴史に関する教育を充実し、国を愛する心や国旗・国家を大切にする気持ちを育むことが企業経営の理念として掲げている。学校だけでは飽き足らず、会社の中でも愛国心教育を進めようというわけである。長期安定雇用で社員の忠誠心を高め、全体としての業績を上げるという日本的経営は、つい最近まで日本の誇るべき伝統であり文化だったはずだが、御手洗ビジョンにとって経営者に不都合な伝統は破棄してかまわないのであろう。

 一体、経営者は、あるいは政府は滅私奉公型の物言わぬ労働者を求めているのか、競争社会を生き抜く自己責任の主体を育てたいのか、どちらであろうか。答えは、両方のいいとこ取りに違いない。国家や会社に忠誠を尽くし、貢献する局面では、パターナリズムの中で従順に権威に従う国民、社員を求めている。しかし、今の為政者や経営者は、忠勤を尽くしてくれた国民や社員を慈しむ心は持ち合わせていない。病気、失業、過労死などという形で個人がリスクに直撃されたときには、政府や会社を当てにするのではなく、まさにリスクを自分で引き受け、自分一人で苦しむ、「自由な責任主体」となることが求められている。

 小泉改革の中で、官僚の権威が攻撃され、社会の透明性や公平性が強調されたときに、息苦しいパターナリズムがなくなることを期待した人々もいたであろう。特に、若い世代ほど、そのような理由で小泉政治に期待をかけた。実際、ある時期までのホリエモンや村上ファンドはパターナリズムの秩序を実力で突き崩したヒーローであった。しかし、小泉政治が残したのは、時に暴力をともなうパターナリズムと、冷酷な自己責任原理の組み合わせであった。

 今ほど政治家や経営者が傲慢になったときはないであろう。しかし、国民や労働者の怒りはそれほど明確に現れていない。このからくりについては、精神分析医の香山リカ氏から聞いた分析を紹介しておきたい。確かに今の社会ではリスクの個人化が徹底され、人は責任主体となることを求められている。しかし、そもそも人はそれほど強い存在ではない。過度な自己責任を求められた人は、むしろパターナリスティックな関係に逃げ場を求める。若い世代を中心にいわゆるスピリチュアルな権威に帰依する人が増えているのも、そうした現象の現れであろう。

 教育基本法を改正して愛国心の注入を進めることにも、国民がまとまることは必要だという受け止め方で、受容するのであろう。まして、凶悪な犯罪が「続発」し、北朝鮮という独裁国で核兵器を開発しているという状況で、善良な市民の生活を脅かすリスクが強調されれば、人々はむしろ強い権威にすがろうとする。経済面では、労働コストを下げなければ国際競争に負けると脅されれば、自らの低賃金も受け入れてしまう。サービス残業の例が示すとおり、今の日本では自分の利益を最優先させる強い個人よりも、組織のためには多少の無理もいとわない律儀な人間が依然として多い。教育基本法改正の際に、戦後教育は権利ばかりを教えて個人主義が行き過ぎたと保守派は主張したが、実は、社会に君臨するエリートこそ最もわがままで私益を追求しているのである。法人税が高ければ企業は外国に逃げ出すなどと国民を脅迫する経営者に愛国心を持てなどと説教されても誰も怪しまない。困ったときこそ自己責任という期待される人間像がそれだけ広まっているということであろうか。

  3 安倍政治にいかに対抗するか

 こうした政治を転換するために、何が必要か。まず何よりも、人間の尊厳を無視する者に対する怒りを取り戻すことである。昔、萬屋錦之助が主演するテレビ時代劇で、錦之助が残虐な為政者を「お前ら、人間じゃない」と言って成敗するシーンがあった。今は、為政者や経営者が、労働者や過疎地の住人を人間扱いしない時代である。権力者が進める政策に対して、それは人間のすることかという問いを突きつける姿勢こそ必要である。そのことは、特に野党の使命である。今の民主党に存在感が足りないのは、人間の尊厳を踏みにじる政治に対して、怒りが足りないからであろう。細かい政策で不十分な点があっても、傲慢な権力者に対する怒りが伝われば、国民の期待も高まるものである。

 具体的な政策としては、パターナリズムによるリスクの社会化という昔の姿に戻ることは不可能である。最近、各地の公共事業に関して次々と談合が摘発されている。すべてを自由競争で行えばよいというものではないという考えに共鳴する人も多いであろう。しかし、談合によって弱者にも仕事を確保するという政策は正当化できない。官製談合では中央省庁の天下り官僚や大手ゼネコンが不当な利益を獲得しているからである。小沢民主党や国民新党が、構造改革の行き過ぎを批判するあまり、かつての仕組みに回帰することを訴えても、国民の支持を得ることはできないであろう。

 もちろん、リスクの個人化と自由放任を組み合わせた、資本主義の純粋化(図の右下の部分)という道をとるべきでもない。医療にせよ教育にせよ、公共サービスを商品化して、選択の自由を強調する一方、負担能力に応じたサービスを提供するという原則を貫けばどうなるか。一握りの金持ちは、最先端の医療や高レベルの教育を受けることができるのだろうが、大半の普通の人々にとってはその種のサービスを購入するためにより大きな出費を強いられ、人並みの暮らしを維持することがますますつらくなるという結果になる。中産層に医療費破産が多発し、貧困層では全人口の15%が医療保険にも加入できないというアメリカの現実が、それを物語っている。

 目指すべき道は、自由で自立した個人が合意の上で、リスクを社会化する仕組みを作り直すという路線(図右上)しかない。最近私たちはこの理念を市民社会民主主義と呼んでいる。第1の意味は市民社会が制御する民主主義である。第2の意味は、市民が制御する社会民主主義である。市民が人間らしく生きるためには、最低限の平等な生活条件を確保しなければならず、そのための再分配の仕組みを市民が制御する必要がある。その点で二つの意味は結びつく。大事なことは、個人に対しても地域社会に対しても人間らしい生活をさせるために必要な資源は十分に確保する一方、人にも地域社会にも多様な生き方を認め、それに関しては個人や地域の自己決定を尊重することである。

 パターナリズムにおける権力の源泉は、法令を解釈したり財源を分配したりするときに官僚が振るう裁量である。軽微な事件で市民活動家を起訴するときにも検察官の裁量がものをいう。官僚の裁量を可能な限り制限し、ルールが誰に対しても公平に適用されるようにすることが、自立した個人が息づく社会を作り出すことにつながる。野党には、このような意味での行政改革、地方分権に向けた構想が必要となる。

 リスクの社会化を論じていけば、どうしても財源の議論が不可避となる。日本では長い間税金とは取られるもので、自分たちの生活に戻ってくるものという感覚が存在しなかった。だからこそ、福祉国家を叫ぶ革新政党も消費税には反対してきた。しかし、そろそろこの点では発想の転換が必要となるはずである。所得税の累進性や法人税など様々な要素を検討したうえで、最終的には消費税引き上げも一つの選択肢となることを、認める必要があると言いたいのである。みんなで税や社会保険料を負担し、みんなで政策の恩恵に浴するような国を作るべきではないか。野党各党には、この点について踏み込んだ議論をし、国民にもうひとつの日本のビジョンを示してもらいたい。

 最後に、政治の年に臨む我々の心構えについて言及しておきたい。市民が政府や企業などの巨大な組織に影響力を及ぼそうとするときには、発言と退出の二つの方法があると政治哲学者、ハーシュマンは言う。発言とは文字通り市民が声を上げることによって政府や企業のあり方を変えることである。退出とは、だめな政府や企業を見放し、淘汰するという方法である。企業との関係では分りやすい話である。欠陥商品を売る企業に対する不買が広がれば、その企業は倒産し、淘汰される。公共セクターにも、地方自治体に対する「足による投票」(サービスが悪い自治体から他の所へ移ることによる自治体の淘汰)や学校選択制など、退出によって変化を促すという方法がある。

 小泉−安倍政治の中では、国民は政治的主権者というより、消費者と位置づけられ、退出による公共部門の改革が奨励された。民主的手続きを通して改革を進めるのは無理だというシニカルな前提に立って、市場モデルを当てはめて国民が消費者として行動することによって、だめな学校、だめな自治体を淘汰しようというのが安倍政治の言う改革である。

 しかし、それは政治の可能性を否定する。政治の年にふさわしく、政治の可能性を復活させなければならない。政治の復活とは、我々が発言によって公共部門のあり方自体を考えるということである。発言の手段として、選挙にまさる武器はない。あてがわれた公共サービスの中から安上がりなものを選ぶという消費者ではなく、主権者として行動していこうではないか。

(世界3月号)