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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告
 
 
本物の「機会の平等」を実現するために
山口 二郎
 
 
 
 国会では格差問題を中心に、与野党の論戦が繰り広げられている。柳沢伯夫厚生労働大臣の「失言」などもあり、野党側は攻撃材料に事欠かない。小泉政権時代には、民間つまり営利追求活動を解放すれば世の中はバラ色になるという単純な議論がまかり通っていただけに、論戦の質はかなり上がったということができる。最大野党の民主党は、小泉時代には小泉首相の圧倒的な人気の前に、世の中の病理をえぐり出し、別の理念を示すという本来の役割を尻込みしていた。安倍政権の人気が低下傾向にある今、政府の政策に正面から対決するという野党らしさを取り戻したことは、喜ばしい。しかし、格差問題1つとっても、格差や貧困の現状認識が与野党で食い違い、議論が深まっているとは思えない。具体的な政策を論じる前に、現代日本において実現すべき平等とは何かという根本的な議論が必要である。ここでは、安倍政権の土俵に載って、あるべき平等を考えてみたい。

 しばしば、結果の平等と機会の平等という2つの平等が対立すると言われている。また、結果の平等は社会主義的発想であり、現代日本においては追求すべきでないとも言われている。しかし、こうした単純な議論の仕方が論争を不毛にする。

 たとえば、大学入試や司法試験など公的試験は公平な競争試験で行われており、その意味では現代日本で機会の平等は確保されているということになる。しかし、国立大学の年間授業料は約55万円であり、決して安いとは言えない。また、司法試験を受け、法律家になろうと思えば、大学、大学院合わせて6、7年勉強を続けなければならない。その間の授業料や生活費を考えれば、そもそも法律家を目指す競争に参加するためにはある程度の経済力が必要ということになる。授業料の減免措置もあるが、金欠にあえぐ国立大学にはそれを大盤振る舞いする余裕はない。機会の平等の恩恵に浴せるのは、実は一定水準以上の富裕層だけということも起こりうる。実際、私の周囲にもかなり厳しい経済環境の中で学業を続けなければならない学生がいる。

 この例からも明らかなように、機会の平等は、形式的な競争条件を揃えることと同じではない。「努力した者が報われる社会」というスローガンは、現状では成功した者は努力したからであり、貧困は努力不足の結果であるという強者の開き直りに転化しているように思える。そもそも競争に参加できない者、苛酷なハンディキャップを背負って競争しなければならない者に実質的な公平な条件を確保することなしに、機会の平等はありえない。

 安倍晋三首相は、機会という面では日本で最も恵まれた境遇に生まれ落ちた人なので、この種の格差是正についても、打ち出す政策に現実味がない。「再チャレンジ」などとカタカナを使わなくても、一定所得水準以下の学生に、大学の学費を卒業後に払えるようにするために無利子融資を行うとか、奨学金を無条件で貸与するといった具体的な政策を実現すれば、機会の平等はかなり前進するはずである。

 こんな提案をすれば、必ず奨学金を踏み倒すモラルハザードが発生するという反論が返ってくるだろう。実際、先日、給食費の滞納に関するニュースが新聞の1面をにぎわしていた。しかし、滞納しているのは全体の1%弱であり、さらにそのうちの3分の1は「払わない」のではなく、経済的理由で「払えない」事例である。日本人の99%は常識的な人々である。例外的なモラルハザードを憎むあまり、常識的国民のためになる福祉政策をも目の敵にするというのは、本末転倒の議論である。

 機会の平等を確保するためにも、再チャレンジを可能にするためにも、政府による積極的な政策と予算が必要である。小泉首相が唱えていた「小さな政府」は、実は機会の平等をも破壊するのである。

(中国新聞2月25日)