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ヨーロッパ統合史
史料総覧

「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告

 

2003年06月13日(金) 研究会(Members Only)「イギリス帝国の危機と英米グローバル関係の起源 1942-1949」
半澤朝彦●北海道大学大学院法学研究科講師
共催:政治研究会
 
●要約

イギリス帝国の危機と英米グローバル関係の起源 1941-1949

半澤朝彦

 1940年代の国際政治は、欧米においては研究史が非常に混雑している分野であるが、日本では逆であり、いまだにアメリカ的な「冷戦」ステレオタイプが広く信じられている。本報告では、1940年代を通じてのイギリス帝国の危機・再編という視点から、鍵となる史料を読み解いていった。

 研究史を概観すると、1960-70年代においては、いわゆる「冷戦論争」を中心に研究がなされていたが、80年代に入り、アメリカ中心史観への対抗や欧州統合の進展という文脈によって、ヨーロッパ外交史研究が非常に発展した。その中から、ヨーロッパ統合前史として1940年代を扱う研究が登場してきている。90年代に入ると、冷戦終了・グローバリゼーションの深化によって、多様な論点が提示されている。また、イギリス帝国史・脱植民地化研究の推移も注目すべき成果である。本報告は、アメリカ史をもって国際関係史とする冷戦史観ではなく、ヨーロッパの自立性の強調に終わる欧州史観でもない、グローバルな1940年代国際関係史を描くためのキーワードの一つとして「イギリス帝国の危機」を強調する。また、1940年代の国際関係史研究では、経済史が除外される傾向があるが、その点も補っていく。

 まず前提として、戦間期の世界について三点の指摘をする。第一にこの時代は、英帝国の没落という一般的イメージとは異なり、むしろドイツ領の併合による中東・アフリカへの帝国の拡大がなされている。第二に、国際政治において経済ブロック化が進んだ時代でもあった。そして第三点目にイギリスの軍事的脆弱性が挙げられるが、それはむしろマルチラテラルな「帝国」への契機を含んでいたことが指摘できる。

 次に第二次世界大戦期についても三点指摘できる。第一に、イギリス帝国は存続し、地理的拡大も見られた。第二に、中東・インドの戦争への動員により、戦勝国としての自負を持ち、帝国意識を堅持強化することができた。第三に、戦費による経済疲弊が指摘でき、このことによって危機が自覚され、以後イギリスは戦後秩序形成に積極的に関与することになる。

 英米による戦後秩序構想については次の四点が挙げられる。

@大国協調…首脳会談、国際機関を更新・強化する

A自由主義経済…アメリカ「孤立主義」を克服し、自由で多角的な貿易を目指す

B帝国の再編・維持(イギリス)

C安全保障…対ソ不信、ヨーロッパ・極東の安定を目指す

この際、政治・経済・軍事にわたる英米関係の包括的理解が重要である。なぜならば、政治指導者は三分野の垣根を越え、包括的な判断に立脚して政策を決定しようとするからであり、また、分野をまたぐ影響関係も時に決定的だからである。

 なお、近年の欧州統合前史的な研究は、戦後当初イギリスは「西欧ブロック」「第三勢力」の形成を目指していたが、1948年以降「大西洋同盟」を目指す路線に転換していったと論ずる。しかし、報告者は、1940年代を通じてイギリス帝国の危機に対応するという目標は一貫していた、という説をとる。そこでは、イギリスができるだけ従属しないようなグローバルな対米関係の構築が目標とされたのであり、その際、対西欧政策はその大枠を前提とした上での、ありえる方策の一つにすぎなかったのである。鍵となるのは、広大なイギリス帝国の危機・再編に対応するイギリス、アメリカの姿勢を包括的に理解することである。以下、時系列的に考察する。

 まず第二次世界大戦中〜戦後直後においては、イギリス=軍事(基地、植民地関与)/アメリカ=財政援助、という一種の役割分担がなされ、これが英米関係の基調となっていく。その際、イギリスの戦後構想は、帝国の維持、米ソに対抗しうるイギリスの地位の維持に主眼があったのであり、欧州「統合」推進を目指していたのではなかった。

 1945−46年頃の英米関係については、イギリス側からの英米軍事的共同関係の追求がされていくが、アメリカは軍事問題を回避していく。この時期のアメリカにおいては、対英認識そのものが一般的に低かったことも指摘できる。しかし、冷戦認識が次第に高まっていく中で、46年9月にはアメリカ側から東地中海での海軍基地共同使用の調整を申し出るようになる。ただ、アメリカにとっては、その反植民地主義のため、反ファシズム・反共以外ではイギリスを「徒党を組む」ことはできなかったのである。

 また、47年にはマーシャル・プランが提案されるが、その過程でアメリカ側に認識されたことは、イギリス帝国の弱体化がアメリカの政策遂行の拘束力となっているということであった。

 なお、欧州統合前史的研究が重視するベヴィン外相による「西欧同盟構想」であるが、これは47年10-11月の中東に関する英米ペンタゴン秘密会議におけるアメリカの軍事的コミットメントの意図なしという状況を背景として出てきたものであり、ベヴィンは「西欧同盟」提案を、高度に政治的なジェスチャーとして行ったのである。そもそもベヴィン自身もはじめから帝国や英米関係が柱であると考えていたのである。これはイギリス帝国の「危機」を利用したイギリスの戦略であったといえる。

 そして、48年〜49年にかけて、英米関係が公式に確立されていく。その一方で、イギリスは、対米関係、対ナショナリズムで必要な限りにおいて公式帝国から非公式帝国への漸次的転換を図っていった。

  1949年以降のアメリカ側の対英認識は、その無関心の度合いが低下し、アメリカの冷戦戦略にとってのイギリス帝国の価値が認識されるものの、それを公式の政策にしにくいというジレンマがあった。このジレンマは1950年代にも継続することになる。

以上をまとめると、第二次世界大戦と冷戦という事態によって引き起こされたイギリス帝国の危機が、1940年代を通じての英米グローバル関係の実質化を促したと結論付けうる。その際に指摘できるのは、貿易自由化、欧州統合、冷戦政策、植民地独立の相互関係に見られる政治・経済・軍事の相互作用であり、イギリス帝国の危機に受身的な対応を迫られるアメリカであり、植民地問題が表面に出ない英米関係の「隠れた関係」である。

「冷戦期」の「西側」内部の紐帯は、政治軍事的には大西洋同盟、太平洋の二国間同盟網であり、これらはグローバル化する志向性を持っていた。その中で、「西側」は、英米仏などの勢力圏における共産化の阻止を図っていった。これは、朝鮮戦争、インドシナ=ベトナム戦争で顕在化したが、イギリスについては比較的目に見えにくく、脱植民地化が成功していたことが指摘できる。

1950年代には、第三世界の台頭によって、イギリスの公式帝国への支持はアメリカにとって次第に困難となっていく。イギリスは、帝国をアメリカ流の非公式帝国に漸次的に「合体」しようとしたが、公式帝国を予想以上に急速に解体せざるをえなくなったことと、イギリス経済に対する見通しの甘さと世界経済の流れに対する読み誤りが重なって、1960年代末(特に67年のポンド危機)までには国際政治における影響力を大きく後退させていく。しかしながら、対外関係に対するイギリスのグローバル志向は現在に至るまで継続性が顕著であるといえる。(板橋記)

(政治研究会ホームページより転載)

 

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