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「大都市圏と地方における政治意識」世論調査報告

 

2003年11月08日(土) 公開シンポジウム「21世紀はデモクラシーの世紀か−ポスト戦後日本とデモクラシー−
酒井直樹●米国コーネル大学アジア研究科教授
ガバン・マコーマック●オーストラリア国立大学教授
杉田敦●法政大学法学部教授
 
ご案内 要約 感想
要約

<<山口二郎報告>>

現在の政治状況

シンポジウム翌日の11月9日には衆議院選挙がおこなわれるが、自民党の小泉政権では、ものごとが単純化され善悪二元論的な国会の議論が目立ってきた。他方他政党を見ても西ヨーロッパの政党政治のシステムと異なり、政治家個人が集合しているのが「政党」というのが日本の現状である。二大政党政治に政治改革への期待が高まった時期があったが、「二大政党制」が楽観的なものではないということが次第に明らかになってきた。このような中、国会での政策議論の不在や国民への説明責任がいまだ定着しない状況がある。また選挙においても小選挙区をいかに生き残るのかという点ばかりが政治家の中で強調されている。これは、かつてG・オーウェルが『1984年』で舞台となる管理社会で描いて見せた政治状況すなわち、NEW SPEAKという「専制は自由である」「戦争は平和である」といった矛盾した言葉を組み合わせて作るプロパガンダ用語によって国民をごまかして統治するという政治状況を思い起こさせる。

戦後民主主義の最終幕

シンポジウム翌日には衆議院選挙がおこなわれるが、この選挙を、「戦後民主主義の最終幕」として理解できるのではないだろうか。

では「戦後民主主義の最終幕」とはどのようなことか考える前に、「戦後民主主義」をふりかえると引退した政治家とその政治家が象徴している以下のような政治問題として理解できる。その政治家とは社民党の土井たか子氏、自民党の宮沢喜一氏、野中広務氏、中曽根康弘氏などである。

60年代以降の日本の政局では、安全保障や経済政策をめぐり以下のような状況があった。

@ 安全保障をめぐり憲法第九条と日米安保条約の入れ子構造が存在した

A @の安全保障枠組みの中で「軽武装+経済成長戦略」という日本の選択肢のもとに政局運営が行なわれてきた

B 経済開発と経済民主主義を国内的に調整する

このような状況の中、安全保障においては、憲法九条の役割を土井氏が、日米安保条約を宮沢氏はじめとする自民党の議員がそれぞれ象徴して国会内で論陣を張っていた。また野中氏は、田中角栄をはじめとする国内開発をめぐる物質的空間的不平等の改革を実現してきた戦後政治を体現していた。また中曽根氏は、戦前の日本の栄光を喚起する使命感を持った反戦後派とも言えるべき政治家であった。これらの政治家は、戦後日本政治の渦中にいた存在というばかりでなく、一定の緊張感を持って戦後政治を実現してきた政治家である。

一方で現在、これらの政治家が体現してきた「戦後政治」「戦後民主主義」の国内状況が、90年代後半からおこなわれる日米安保条約の再定義やバブル崩壊、グローバリゼーションの拡大の中で、国内外からその構造の変革を迫られつつある。

ポスト戦後政治世代

以上の「戦後政治」の枠組みが変更を迫られる中、その変革を象徴する政治家を見てみることにすると、安倍晋三氏、石破茂氏など新世代の政治家は、アメリカにパラサイトし従属してきた日本の政治を最初から前提にしているところがあるように思われ、「戦後政治」を行なってきた世代と比較すると現状に対する緊張感が異なるように思われる。

一方で市民社会の方に目を転じると、さまざまな活動が活発になり発展した反面、アメリカ社会と同じような市民社会の問題が指摘されるようになってきた。この点を地域社会での市民活動として例をあげると、例えば地域の市民の活力がリーダーを選ぶという長野県のようなケースもあれば、単純な善悪二元論に立脚し一見分かりやすい政策提言をする石原知事を選択するというある種の権威主義が生まれている現実もある。

今後の課題

以上の議論において、共通しているのは、「戦後政治」のリニューアルが今後必要となるという点である。その点に関し、「憲法」と「開発」という二点に関して今後の課題を述べることにする。

まず「憲法」特に九条をめぐる改革では、今まで九条がアメリカのサポートをする枠組みで利用されてきた点を踏まえた上で、「与えられた」まま改革していいのかという点が問題点としてある。さらに、今後もアメリカのサポートを行なうのか、という国際政治的課題も踏まえながら議論を行なう必要があるだろう。

次に「開発」の問題では、ネオリベラルをはじめとする市場中心主義が政策用語としてだけでなくいろいろな所に蔓延している現実がある。田中角栄氏が活躍した時代と異なり、情報の格差などが起こり難い現代では、「新たな平等」が必要とされている。例えばヨーロッパでは、市民参加などの過程をできうるだけ平等に行なう努力を政府が行うようになってきている。「結果の平等」から「機会の平等」というかたちで「平等」の実現を変化させる点が今後課題となるのではないだろうか。また以上のような議論の場を今後さらに広げていく必要もあると思う。

<<酒井直樹報告>>

はたしてポスト「戦後」といえるか?

山口氏の言葉を借りるならば、現代の国際政治の状況は果して「ポスト戦後」といえるのかどうか、という点に関し、アメリカの国際的ヘゲモニーとグローバル化における日本の「国民主義」という点を素材に議論を展開したい。

米の占領政策と日本の「国民主義」

韓国の映画「ペパーミントキャンディー」を以前見たときに、米の戦後日本占領政策についての着想を得た。

というのも近年、アメリカ・イギリスのマスコミを中心に、かつての米日本占領が賞賛されているからである(もちろん戦後の日本支配は正確には連合国による統治というべきであるが、概略米支配と考えてよいと思われる)。これは明らかに近年のイラク占領・統治の状況を踏まえてのことと考えられる。以上の状況を考えると、現在イラク問題に関連して、日本の「国民主義」を考察する際に以下の論点が重要と思われる。

@ 日本とイラクのかかわりについての国内的な問題点(有事法制・イラク派遣の問題をどうとらえるべきか)

A 日本の占領とイラク占領の問題が英米において重ねる世論が形成されてきたことをどのように考えるべきか

B 日本の占領が米英の世論で何回も語られたことによって、何がかくされてしまったのか

以上の点を個別に検討したい。

イラク戦の理想の役割としての「日本占領」

現代のアメリカにおいて、特にイラク戦との関連で言えば、日本占領が果した役割は大きく2つある。第一に米の世界戦略=文明化(シビライジング)という世界戦略の正統化のために利用された点があげられる。この文明化とは、非キリスト教文化圏の文明化のことであり、日本の例はその成功例・美談として語られる。またそこで語られる物語では、米国が全人類の代表として理解されることを目的としている。

第二の点は、成功例としての日本占領が、アメリカ国民のナルシズムを満足させる役割があるという点である。この論は学術的な場面では以前からあるもので、「近代化論」として論じられた。この論においては、日本占領によって日本は経済成長と反共の国として民主化され、アメリカの政策が輸出可能であったとして、米の日本支配を正統化するものであった。つまりアメリカの日本支配のようにうまくやりさえすれば、以前の19世紀的な帝国主義的な露骨な支配を行なわずとも有効な支配が戦後可能になった、という議論である。この論では、日本をアメリカの衛星国として捉える論理構造になっており、極端に言えば、日本占領は「独立=(米)従属」という論理で説明されたといえる。

日本の戦後支配構造と「国民主義」

現代の話にもどすと、イギリスは、日本のような「衛星国的立場」といわざるを得ない状況にある。とするならば、日本は先例として考えるべきなのかどうか、つまり、国民主義の形成を国際政治のヘゲモニーとの関連で考える必要があるのではないだろうか。

「独立=従属」という現実をどのように考える必要があるだろうか。このような現状に対し、かねてから批判を行なってきた論説が日本にも存在した。一つは「普通の国論」という議論であり、もう一つが米従属を批判する「国民主権の回復」という議論である。しかし以上の議論で、現代の課題としての「国民主義」というものを批判しきれているだろか。これらの議論には、「国民主権」というものが一国の自立的なものとして成立可能であるという前提がある。しかし、日本の占領過程の言説を考察したように、日本の独立は対外的な「独立」が国際的な「従属」関係を形成してきた歴史とも言えるわけであり、その点で言えば、「国民主義」に基づく自立という構想は、限界を持つ議論であるといわざるを得ない。その点を実証する論拠として、タカシ・フジタニの発見した1942年のライシャワー(元日本大使館)メモがある。これによれば、ライシャワーは、日本占領を行なう3年も以前に以下のような点をはっきりと発言している。

 「(日本統治をスムーズに行なうため)日本国内の協力的集団を引き入れるものである。…利用するべき傀儡政権といえるものである…私が言わんとするのはもちろん天皇のことである。傀儡として利用するため天皇に責任を課してはならない。」

このメモで明らかなように、米の日本支配は、日本の「国民主義」を乖離し行なわれたのではなく、「日本的国民感覚」を率先して育てる占領、日本の国民主義を政治的道具として利用したものとして考えられるのではないか。そうすると、「戦後日本の国民主義」とは戦後のアメリカの帝国主義的支配を受け入れる「国民主義」として理解できるのではないか。

19世紀的「国民主義」と戦後の国民主義の差異

かつて「国民主義」という言葉は、「同じ言葉・民族の共同体」「独立を保障する前提」ということを意味していた。しかし近年の議論では、実際に国家内での同質・同一性が、現代ではそれほどはっきりしたものではなかった事がわかっている。しかしこのような議論にくわえ、私は「自発的従属と独立国家の内実の変化」という点が、今までに議論されてこなかった点であることを指摘しておきたい。すなわち、「日本があたりまえの国で無いから従属的」なのではなく、国民主義・国民国家の内実が戦後変化したということだと私は考える。そう考えると、米の日本占領は、国際支配を行なうアメリカという「帝国」の誕生のための一里塚として理解する必要があるのではないか。また同時に、アメリカのヘゲモニーも、「独立=従属」関係という相互依存関係の中で考える必要がある。というのもアメリカ自身が日本支配というかつての物語によって米国民のノスタルジーを喚起するということ自体が、アメリカの「主権」を侵しているということではないのだろうか。いずれにせよ、戦後の国民主義を考察する際に、「独立=従属」という日本の政治構造を理解する必要がある。

<<マコーマック報告>>

私が日本にはじめて来日したのは1962年のことである。経済成長期から、低成長期を経て、90年代の「政治的空白」は現代にいたって、大きな転換期を向かえている。私はその転換を、「列島と切り離せない朝鮮半島」を素材として考えてみたいと思う。その際、日本において語られている「北朝鮮」像を手がかりとして議論をしてみたい。ここでは日本において語られている「北朝鮮」を問題にするので、北朝鮮の実態についてはまた別の機会で議論したい。

二人の日本人の発言と語られている「北朝鮮」

現在北朝鮮の拉致問題を中心に、マスコミなどでも北朝鮮や金正日批判の話題が非常に多く語られている。また一方で小泉総理や石原都知事など、彼等の北朝鮮に対する評価には人権的にも不寛容で戦争をちらつかせるものがあるなど、かつて無い暴言がまかり通っているかのごとく思える。このような現状の中、二人の日本人の発言を紹介したい。このうちひとりは、中曽根康弘元首相である。中曽根氏は、現代を、ナショナリストの立場から、「自分の理想が実現に向かう過程としては最高潮な時代」としている。憲法改正の議論の盛り上がりや教育基本法改正などがその過程である。もうひとりの日本人は、評論家の加藤周一である。加藤氏は、現在を戦前の日本にひきつけて理解して「軍国主義にしか向かわない展望の無い時代」とし、北朝鮮報道の動きを1920年代の関東大震災における朝鮮人差別問題と重ねて理解する。このように、同じ世代の二人の日本人でありながら、現代の評価が加藤氏と中曽根氏では180度違うといってよい。このような違いはどうしておこるのだろうか。戦後日本の成功は冷戦期の経済成長にあったと言える。その成長が冷戦とともに終わりを告げ、国家の枠組みである憲法や教育基本法など改めて問い直されようとしている過程で、二人の立場の違いがより鮮明に以上のような違いとして出てきていると考えられる。

日本の戦後の歩みと北朝鮮の言説

日本は1950年代から80年代にかけて、自民党は経済至上の政策をとってきた。その過程で、日本においては、経済成長やそれを保障する国家以外の課題は、大きな問題とならなかった。具体的に言えば、企業や国家は課題として上位に立ち、市民社会の問題や家族や共同体の問題などは課題として下位に置かれてきた。現在日本はアメリカを中心とするグローバルな国際関係に追従しようとしている。その一方で日本の自主性を支える古い「誇り」や物語が作り出されようとしている。その一つが、北朝鮮への侮蔑ではないか。日本での国家に対する愛国を北朝鮮への侮蔑から得ようとしているのではないか。というのも、日本への愛国を保障する国際政策的条件は北朝鮮問題以外現代ではないからである(かつて国連の常任理事国入りが議論されたが、捕鯨規制緩和以外の国際政策は今の日本に期待できないからである)。

深刻化した北朝鮮問題

以前から不信船問題やテポドンの問題などがあり、ピョンヤン宣言によって、北朝鮮に対する国民的な怒りが一つの形になったといえるであろう。これだけでなく、2000冊を越える種類の北朝鮮を扱った本の発行や、金正日の曝露本、金正日の政権交代を声高に主張する安倍晋三の自民党幹事長入り、拉致議連やすくう会などの声が政府に影響を与えている状況など、他にもさまざまな状況が上げられる。これらに共通しているのが、北朝鮮に対する憶測や曲解によって形成されたイメージが彼等の主張に挿入されているということである。確かに実態としての北朝鮮は拉致以外にも大きな問題を抱えた国であることにちがいは無いが、一方で日本の戦前の姿勢など反省が無く、一方的に「自分が犠牲者である」という点が以上の議論で強調されている点に私は疑問を感じる。というのも、ピョンヤン宣言には、北朝鮮政府が戦前に日本から被った強制連行などについての賠償請求権の放棄を認めさせ、その一方で北朝鮮には拉致問題の補償を請求するといことが明記されているからである。北朝鮮は、以上の補償請求権放棄を認めたが、訪日した拉致経験者5名は北朝鮮に戻ることは無かった。また日本でも批判されている北朝鮮の核開発についてはどうか。日本は、アメリカの核の傘の内側にいて北朝鮮の核開発を批判しているように思われる。核兵器の保持と違って、核開発を国際的に違法な行為として主張することは難しい。ところで日本は今までアメリカにさまざまな面から軍事的な協力を行なってきた。最近でもアフガニスタンにおいて、米軍が使用したクラスター爆弾やデージーカッター、劣化ウラン弾など国際的に見てもきわめて危険な兵器の使用に目をつぶってきた。さらには生物兵器使用を禁じる条約や地球温暖化の二酸化炭素規制条約の脱退問題など、アメリカの姿勢を日本は目をつぶってきた。

拉致問題へのアプローチ

北朝鮮の拉致問題は日本ばかりではなかった。韓国の拉致者は数千名とも言われている。韓国は日本と異なり静かではあるが確実に解決の方向を交渉によって探っている。また拉致として朝鮮民族が思い出すのは、歴史的には戦前の日本の強制連行である。北朝鮮の現在の拉致は解決すべき問題ではあるが、一方で以前の日本が行なった拉致の問題はどのように考えるのか。またこの点に関して言えば、戦中派の中曽根氏のような人が北朝鮮を攻撃する理由として、北朝鮮の国家体制が、戦前日本の軍国主義体制と共通している点があるように思われる。現在の北朝鮮は、戦前の軍国主義国家の悪しきパロディーとして、戦中派の人にうつっているのではないだろうか。(北朝鮮はその他にも無法者という点でアメリカの国家姿勢と共通する点もあると思われる)

北朝鮮の批判がなぜ遅れたのか

最近北朝鮮の強制収容所の問題などが発覚してきて、なぜそのようになるまで北朝鮮の批判が起こらなかったのかという点が議論されつつある。特にこの点に関して戦後民主主義のグループや左翼に対しての風当たりが強い。なぜ、北朝鮮への批判が今ごろになるまで起こらなかったのか。それは、1970年代までの日本の人権グループや左翼グループの批判は、もっぱら韓国の専制的な軍国主義に向けられていたからである。もちろんその時点で北朝鮮への批判に目がむかわなかった限界はあるのだが、その韓国への批判が、国内の民主主義的な動きと連携し1987年の民主主義的な韓国の転換を生み出したといえるだろう。80年代に入るとさすがに日本国内でも北朝鮮の批判もおこなわれるようになってくる。今後は韓国のように北朝鮮の民主化もおこなわれることを期待したい。

<<杉田敦報告>>

グローバリゼーションの定義

グローバリゼーションという言葉が多く語られている一方で、その内容はどのようなものとして考えたらいいのか定義が難しい。この定義を明確にすることから、はじめたい。

まずグローバリゼーションが指し示すこととしては、主権国家・国境という単位の自明性がゆらいでいるという点がある。もちろん、国境線の崩壊・消滅ということを直ちに意味しないし、国境線がゆるがされることによってナショナリズムが強められるということもある。しかし近代国民国家というようなものがゆらいでいるということには変わりないだろう。

一方で、グローバルに広がる力に対する疑問も同時に起こっている。国境線を越えて広がる力や何が国境線を越えてきているのかという点に関して一様ではない点が、グローバリズムという用語をさらに難しくしている点も指摘できる。

国境を越えるもののスケッチ―国境を越える権利と義務

国境を越える力を「国境を越える権利」という点で考えてみることにする。例としては難民がこれにあたるだろう。難民に関しては、かつては、経済難民と政治難民を区別し、政治難民の保護に力点をおいて、この問題にアプローチをしてきた。それは一方で言えば主権国家の枠組みを生かしつつ難民の問題を解決するというアプローチであった。しかし今後は経済難民の側の問題を解決せざるを得なくなってきているだろう。経済難民の移動に関して論理的に言えば、その移動を制限する(反グローバル派)立場とその移動の選択は規制すべきではないという立場と両方考えられる。しかし人の移動というものがどれだけ取り締まれるかということに関しては疑問が残る。また経済問題に関して言えば、多国籍企業化=資本の移動という点も規制すべきかどうかという論点にかかわる。資本の移動に関してはアンビバレンツな問題が横たわっている。というのも、多国籍企業が移動する先は発展途上国が多いのだが、その移動によって途上国が搾取をされるのではという議論がある一方で、搾取されながらでも経済があるだけましである、という議論も同時に成り立つからである。

以上の点を整理してみると、「国境を越える権利」の持つアンビバレントな問題は、フーコーに帰せられる生権力(バイオ・パワー)のアンビバレンツな性格の問題と、関連して考えることができるだろう。生権力論というのは、生物としての人間の生命活動が政治の前面に押し出されてくるという考え方である。その例としては福祉国家であったりナチスの優生学的政策であったりする。生権力は「国境を越える権利」同様、アンビバレンツな性格を持つ。というのも、「人間の生命活動を保障すること」はなかなか否定できないからである。

以上のように考えてみると、生権力論は一方で主権国家によって生権力を実現されるという前提であったが、現在ではその前提が崩れ、労働力や資本の移動がナショナルな枠を越えて移動しており、生権力論のアンビバレンツな性格も、国家だけでなく資本や労働力・経済の移動という現象のアンビバレンツな性格として現象しているという点が現代のグローバリズムの特徴である。(アンビバレントなグローバリズムに対して反対の立場を取るものも、この生権力の側からの批判となる。たとえば、金子勝氏のように生活を守る立場での反グローバリズムという立場であったり、外国人に脅かされる生活の不安から来る石原都知事の差別発言であったりする。)

「国境を越える義務」においてはどうであろうか。この場合私が国境を越える義務として考えているのは、「人道的援助」というものである。人道的援助は国連などによって国際的に行なわれている活動であるが、問題はあるものの、理念として抑圧的な政体を持つ国に対してその対応を考えるという点では重要な問題である。抑圧的な国の国民を助けなくてよいものだろうか。M・ウォルツァーはこの点に関し、「海でおぼれている人を助けるのに相談する必要はない」として、人道援助を正当化している。もちろん「海」と「空爆」では同様に考えられないということは断りつつも、人道支援の必要性が国際的な課題になっている点は、認めざるを得ないであろう。とするとどのような主体がこの援助を行なうべきなのだろうか。

ここで思考実験として、「義勇軍」というものを考えたい。というのも、義勇軍とは悪い例としてはアルカイダのようなものも含むのだが、一方で、国家を媒介として軍事のことを考える習慣が身についている我々に必要な発想の転換を含む思考モデルであると私が考えるからである。我々には国際的な問題解決に国家というものが媒介となっていると考える習慣があるが、例えば「国境なき医師団」など自分たちの行動から国境をはずした活動は現実に存在している。これは国家・国境を前提にするとナショナルインタレスト=国益に関係するため、問題解決が困難になるという主権国家の実態を踏まえた議論であると思われる。数年前ピノチェトが国際司法裁判所においてクデターでの虐殺を裁かれた時に「かつて神から国家に与えられた権威は個人に属するものになるのであろうか」ということを発言したが、主権国家がさまざまな点でゆさぶられている現在、人道や義務といったものを個人に属するものとして託せられるのかどうか―もちろん強い抵抗があるのだが―という点もグローバリズムの今後の課題となることであろう。

主権とデモクラシー

主権は絶対的な権力である―これは神学的な神の投影であるーという議論はかつてK・シュミットが行なった議論である。ここで、絶対的な国家を立てる意味を考えることにする。例えば先ほどあげたピノチェトは、ピノチェトが大統領を行なっていた国では裁けなかった。結局は外国が取り締まることを期待せざるをえなかった。同様に戦争犯罪というものもその国内においては取り締まり難い。それは主権国家が犯罪者をかくまうからである。

他方で以上のような議論に対して、主権国家が存在することでさまざまな犯罪が取り締まられてきたのだという反論もある。例えば法哲学者の井上達夫氏は人権と主権は切り離せないものであって、人権の平等と、国家の平等はミクロコスモス・マクロコスモスの関係であると主張し、「主権は人を解放する」と『普遍の再生』述べている。

しかし主権国家=国際権力という主権国家論の考え方ではある種の権力の独占化を正当化してはいないであろうか。同一性をもつと前提される主権国家のみが国際社会の権利主体とするだけで問題が解決するであろうか。現実には、我々は、親密圏、企業、市民社会というさまざまな共同体の中で生活している。特定の生活単位のみで生活しているわけではない。つまり特定の国民国家のみに我々の生活世界自体が結び付けがたい現実がある。今後課題としては、さまざまな単位間の対立など今までは主権国家が解決してきたといえるが、今後は国家の枠組みがゆらいでいく中、生活単位相互での問題解決をどのように行っていくのかという点も大きな課題となるだろう。(中俣記)

 

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